太陽はいっぱい

発達障害児を見守る介助員のブログ

学級内潜伏期間

現実を受け入れなければならないのは、障害児童だけではない。学級で共に生活する児童たちにとっても、少なからずその影響が及ぶこともまた事実だ。Rの場合、学級内でその兆候が強まり出したのは1学期の半ば頃だったという。


当然ご家族にとってのその胸中は計り知れないものだ。外部から問題行動の指摘を受け、疑問を抱きつつもわが子の過去を振り返る時、認めたくはない事実に苛まれるかもしれない。医学が日々進歩し、新たな病気が明確化されて行く現在を恨めしく思うかもしれない。何故なら自分たちの世代にも、似たような問題行動をとる児童は存在していたからだ。


ちょっと変わったやんちゃな子。俺の時代にもクラスに1人や2人はいた。それは体制におとなしく従順な方だった俺にとって、その自由さ奔放さは羨ましくも思える存在だった。全く世界は皮肉に満ちている。

ADHDのR

Rとの初対面は校長室、2010年の夏の終わり、担任に連れられて来た彼と会った。少し落ち着きがないが、ちゃんと座って話を聞いている。結構容易いんじゃ?と感じた。その時は戦いの始まりとは思いもしなかった。


ADHD。俺は何らその知識を持たないまま、最初の担当対象児童との日々を始めた。学校側も俺に多くを期待していたわけではない。当初指示があった点を要約すると、「本人や他の児童の安全維持」つまり、見守ってほしいということだ。実際それは今でも変わらない。付いていてくれれば誰でも構わなかったのだ。


2018年の現在では広く認知されてきたADHD。7年前ではまだまだその知名度は低かった。不謹慎な話だけど俺は初めてその障がい名を聞いた時、あるロックバンドを思い浮かべてしまった。その疑いを持つ児童が1つの学校に数パーセント(他の発達障害を含め)にも及ぶとも知らずに。

学校と俺

俺自身にとって「小学校」とは…俺が通っていた頃、大人になってから、で、その印象は大分異なっている。


ぶっちゃけ、俺は内向的だった。自己紹介などは嫌で嫌で…発言では常に赤面、授業では指されまいとして先生とは目を合わせられない日々を過ごした。だから、いい思い出は少ない。


だだ確か4年生の時に来た教育実習生の先生。先生が去ってしまう日は悲しくて仕方なかったことを覚えている。今ではあり得ないまことだろうが、先生にもらった下宿先の地図が最寄駅から記された小さなメモを大切に持っていた。しばらく俺の宝物だった。それは数少ないいい思い出だろう。


やがて月日は流れ、俺は学生結婚をした。学校を中退し初めて勤めた先は「学校」だった。もちろん先生ではなく事務職だけど…どちらかと言えば好きではなかった学校にまた戻るとは、ちょっとしたサプライズではあった。その後何度か繰り返した転職でも、別業界を経て学校関係に帰ることがパターンとなった。


苦手な自己紹介(笑)は一先ずこの辺りで。


R。


俺とは反対側の道を歩く少年…だろうという俺の浅はかな推測に反して、ことごとく繊細性を見せてくれた未知の子。それを実感するのにさほど時間は必要なかった。