太陽はいっぱい

発達障害児を見守る介助員のブログ

一定のカミングアウト

1学期の終わりに特別な保護者会があった、という。学級内でRの問題行動が頻繁になり、他の児童への影響が強まっていた。そこで説明会が開かれたらしい。ただRが1人でクラスをかき回していた訳ではない。主だった相手としてBという少年がいた。2人は気の合う友人関係…だと思われていた。


同年代の子をお持ちの方々ならお解りだと思うけれど、この年齢の男子は子供のようでいて大人振りたく、実は思ったよりもまだ全然子供。同じ時間を大人たちより長く過ごしては、初めての経験をスポンジのように吸収し、過去を振り返らないで生きれる才能を秘めている。俺はその才に助けられ、そして、何度か思い知らされてもいる。


保護者会の後日、学級では担任から児童たちに対しRの実情を打ち明ける時間が持たれた。俺はその詳細については知らされていない。一定のカミングアウトが為された、とだけ伝えられていた。

学級内潜伏期間

現実を受け入れなければならないのは、障害児童だけではない。学級で共に生活する児童たちにとっても、少なからずその影響が及ぶこともまた事実だ。Rの場合、学級内でその兆候が強まり出したのは1学期の半ば頃だったという。


当然ご家族にとってのその胸中は計り知れないものだ。外部から問題行動の指摘を受け、疑問を抱きつつもわが子の過去を振り返る時、認めたくはない事実に苛まれるかもしれない。医学が日々進歩し、新たな病気が明確化されて行く現在を恨めしく思うかもしれない。何故なら自分たちの世代にも、似たような問題行動をとる児童は存在していたからだ。


ちょっと変わったやんちゃな子。俺の時代にもクラスに1人や2人はいた。それは体制におとなしく従順な方だった俺にとって、その自由さ奔放さは羨ましくも思える存在だった。全く世界は皮肉に満ちている。

ADHDのR

Rとの初対面は校長室、2010年の夏の終わり、担任に連れられて来た彼と会った。少し落ち着きがないが、ちゃんと座って話を聞いている。結構容易いんじゃ?と感じた。その時は戦いの始まりとは思いもしなかった。


ADHD。俺は何らその知識を持たないまま、最初の担当対象児童との日々を始めた。学校側も俺に多くを期待していたわけではない。当初指示があった点を要約すると、「本人や他の児童の安全維持」つまり、見守ってほしいということだ。実際それは今でも変わらない。付いていてくれれば誰でも構わなかったのだ。


2018年の現在では広く認知されてきたADHD。7年前ではまだまだその知名度は低かった。不謹慎な話だけど俺は初めてその障がい名を聞いた時、あるロックバンドを思い浮かべてしまった。その疑いを持つ児童が1つの学校に数パーセント(他の発達障害を含め)にも及ぶとも知らずに。